久しぶりの更新になります。新型コロナウイルスによる社会への影響はこの1ヶ月の間により一層深刻化し、今月7日には7都府県に、そして16日には全国へ緊急事態宣言を拡大するまでに至りました。新型コロナウイルスの魔の手はプロ野球界にも及んでおり、先月26日に阪神の藤浪晋太郎選手ら3選手が味覚と嗅覚の異常を訴えてPCR検査で陽性と判定されたのを機に、多くの球団が活動を休止し、開幕日を設定できない状況が続いています。また、OBである梨田昌孝氏、片岡篤史氏も罹患していることが報道されました。現在も病床での懸命なウイルスとの闘いが続いています。手強いウイルスですが何とか復帰して、元気な姿で活動されているところをまた見られることを信じています。今年のプロ野球の形がどうなるかは見えてきませんが、昨年までの形式では大切な人の命が脅かされる危険性があるので、新たな形を模索しなければならない時期に差し掛かっているのかもしれません。無観客試合やシーズン休止も選択肢に入ってくるでしょう。球団を持つ諸企業がどれくらい体力があるかは分かりませんが、来年以降も現行の12球団でやっていけるような形が良いですね。さて前置きが長くなりましたが、今回からは不定期企画として、過去のチームを振り返る記事を書いていきます。第一回は水爆打線を擁した1950年の松竹ロビンスの記事になります。プロ野球がある当たり前の日常を思い出せるような記事にしたいと思いますので、どうぞご一読を。
1.チーム概況
まずは現在では"消滅球団"として知られている松竹ロビンスの1950年までの球団史を簡単に説明します。チームとしての始まりは1936年2月に結成された大東京軍まで遡ります。親会社は新愛知新聞社(現・中日新聞社)傘下の國民新聞社で、新愛知新聞社を親会社とする名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)とともに日本職業野球連盟に加盟し、日本プロ野球最初の7球団として一年を送ります。初代オーナーは元警視総監の宮田光雄氏でした。その翌年、國民新聞社による資金繰りが苦しくなったことから、監督であった小西得郎氏の仲介で共同印刷の大橋松雄氏にオーナー権が移ります。大橋氏はスポンサーとのタイアップを考え、小林商店(現・ライオン)をスポンサーに迎えたことでチーム名は1937年秋からライオン軍となります。その後、大橋氏はより自由にチームを運営できる義弟の繊維商社・田村駒の経営者、田村駒治郎氏にチームを譲ります。田村氏は若い頃に訪米した経験があったことからプロ野球に関心があり、戦時下の英語使用禁止によりチーム名を朝日軍へと変更を余儀なくされ、小林商店がスポンサーを降りた後もオーナーとして戦時中のプロ野球を支えます。戦後、朝日軍のメンバーはゴールドスターという別の球団としてリーグに加盟したため、田村氏は再度チーム作りを余儀なくされますが、懇意だった読売巨人軍初代監督の藤本定義氏を監督とし新球団パシフィックとして再出発します。その後、田村氏自身の名前から駒鳥(=ロビン)を連想し、太陽ロビンスから大陽ロビンスへと名を変え、1950年にプロ野球運営に興味を持ち始めた松竹が経営に参加し、松竹ロビンスとなります。このシーズン前はというと、前年オフのプロ野球再編によって7球団が新規参入し、セ・パの2リーグに分裂したこともあり、リーグ間での選手の引き抜きが相次いでいました。セ・リーグに加盟した松竹も例外ではなく、セ・リーグ常任理事であった赤嶺昌志氏の意向によりパ・リーグの大映スターズから小鶴誠、大岡虎雄、三村勲、金山次郎ら有力選手(社会人野球・八幡製鐵所から37歳でプロ入りした大岡選手は助監督も兼ねる)を引き抜きます。これに加え、過去には南海の立ち上げにも尽力した大ベテランのキャプテン・岩本義行選手の説得で監督としてチームに縁が深い小西得郎氏を迎えたことで戦力が整い、開幕してみれば破竹の強さで見事セ・リーグ初代王者に輝くのです。では、セ・リーグ最高勝率を記録した1950年の松竹ロビンスの強さがどのようなものだったのか、次項から詳しく見ていきましょう。
2. 状況別チーム成績
まずは月ごとの各球団の貯金を見ていきます。
5月までは中日との首位争いが続いていましたが、6月に中日が失速したことで6月末には一気に2位中日との差を5ゲーム差まで広げます。7月からは中日が持ち直しますが、じりじりとゲーム差を広げ、9月13日には残り39試合を残してマジックナンバー33が点灯します。中日も必死に食い下がりますが、その後も順調に貯金を伸ばし11月10日のダブルヘッダー第一試合目に遂に優勝。最終的には98勝35敗4分という圧倒的な成績でシーズンを終えます。98の勝利数は歴代2位(セ・リーグ記録)、63の貯金は現在でも歴代最高記録であり、まさに記録ずくめのシーズンだったと言えるでしょう。
(2020/4/30修正)
次は松竹ロビンスの月別チーム成績を見てみましょう。ここで「T打率」、「R/G」、「H/G」、「HR/G」、「RA/G」はそれぞれチーム打率、一試合あたりの得点数、一試合あたりの安打数、一試合あたりの本塁打数、一試合あたりの失点数を示しています。この年は3月10日から11月20日までというかなり長丁場のシーズンで、一ヶ月に25試合以上行うこともある現在のプロ野球と比べると日程的に余裕のあるシーズンでした。この辺は、このシーズンからセ・リーグに加盟した大洋ホエールズ、西日本パイレーツ、広島カープがそれぞれ下関、福岡、広島という西の地方に本拠地を持っていた影響があるのでしょうか。何にせよこの日程も味方し、スランプなく勝利を積み重ねていたことが分かります。特にチーム打率、得点数は後半になるに従って上昇しており、圧倒的な打力で掴み取った優勝であるということが窺えるデータになっています。
対戦相手別の成績を見ても、全球団に対して6割以上の勝率を維持しており、特に苦手とした球団はありませんでした。藤本英雄、別所毅彦ら好投手を擁した巨人にだけは打率.248と比較的抑えられていますが、他のチームに対しては打率.280以上、平均得点6点以上と打ちまくっています。約7点以上取らないと勝てないという状況は、対戦相手にとって相当な脅威だったに違いありません。
この項の最後に、球場ごとの成績を見ていきます。以下の上の表がホーム試合、下の表がビジター試合の球場ごとの成績になっています(この時代はフランチャイズ制が確立していないため、ホーム、ビジターという概念は無かったのですが、ここでは後攻の試合をホーム、先攻の試合をビジターとしています)。
前年度から本拠地は京都衣笠球場としていましたが、前年度41試合を行ったのに対し、このシーズンは4試合に留まっています。その分、地方での開催が増えており、驚いたことに北は小樽桜ヶ丘球場、南は平和台球場と24もの球場をホームとして試合を行っています。ビジターも合わせると実に37もの球場で試合を行っており、当時の東京-大阪間が約8時間であったことを考えると、移動の大変さは今とは比べ物にならなかったのではないでしょうか。これだけ移動していたならば、先程の日程の緩さも納得です。明確な本拠地球場を持たず、広さなどあらゆる条件の異なる球場に臨機応変に対応して勝ち続けたことはもっと評価されても良いでしょう。
3. 個人成績
最後に、個人成績を見ていきましょう。まずは、投手陣です。
打撃陣が注目されがちですが、投手陣も防御率リーグ2位と奮闘しています。中でも、朝日軍時代からの生え抜き選手である真田重男(真田重蔵)選手はリーグ最多の395.2回を投げ、当時歴代3位の39勝をマークし、沢村賞を獲得しました。さらには二番手江田貢一(江田孝)選手がキャリアハイとなる23勝を挙げ、三番手(日本シリーズでは一番手)のオールドルーキー大島信雄選手も20勝に加え最優秀防御率と新人王を獲得するなど、この3人だけで82勝を積み上げました。3人の誰をエースと呼んでもおかしくない、強靭な投手陣に恵まれての優勝だったと言えますね。
次は水爆打線と恐れられた打撃陣です。一番に打率3割、74盗塁の俊足金山次郎選手、二番にパンチ力のある三村勲選手、三番に得点と打点の記録で現在も名高い小鶴誠選手を置く上位打線に、トリプルスリー第一号の岩本義行選手、大岡虎雄選手、吉田和生(吉田猪佐喜)選手らパワーのあるベテランが中軸を打ち、捕手・荒川昇治選手、遊撃手・宮崎仁郎選手が後に続く打順が基本オーダーです。野球黎明期のため、左投げの先発が投げる時以外は全員右打者です。7月下旬に木村勉選手に代わって金山選手が一番に定着してからはほとんどの試合をこのオーダーで戦っており、実践した試合での勝率は.792(38勝10敗1分)に上ります。注目したいのは本塁生還数(=得点-本塁打)で、吉田選手を除くレギュラー野手が50生還以上を記録しており、どこからでも得点の起点になる切れ目の無い打線であったことが分かります。また金山選手、荒川選手ら本塁打の少ない選手も高いOPSをマークしており、.813という驚異のチームOPSを記録しています。先述の通り金山選手、三村選手、小鶴選手、大岡選手は大映からの新加入選手、吉田選手はシベリア抑留から復帰して最初のシーズンであったことを考えると、戦後の動乱の中偶然生まれた夢の打線と言えるかもしれません。
4. その後の動向
歴史的な強さでセ・リーグ最初のシーズンを制覇した松竹ロビンスですが、毎日オリオンズと対峙した日本シリーズでは打率.215と抑え込まれ、2勝4敗で敗退してしまいます。翌年は一転、岩本選手以外の選手が軒並み成績を落とし、借金4で負け越します。さらに翌年、親会社である田村駒の経営悪化によって岩本選手、真田選手、大島選手らを放出したことで戦力が大幅に低下し、勝率.288でチームは最下位に沈みます。シーズン当初の取り決めにより罰則が課され、紆余曲折を経て最終的には大洋との合併が成立。多額の負債を抱えていた田村駒は経営から退き、事実上チームは消滅します。「大洋松竹ロビンス」としてかろうじて残っていた名前も1954年に松竹が球団経営から撤退したことで無くなり、以後"消滅球団"として人々の記憶から消えていくことになるのです。結局、この系統の球団としては17年間でAクラスは3回だけでした。それだけに、1950年の強さが際立ちます。一年だけ強くなって消えていくというこの"儚さ"が、このチームが「幻の球団」とも称されるゆえんと言えるでしょう。
5. 終わりに
以上、1950年の松竹ロビンスについての記事でした。やはり野球のデータを見るのは面白いですね。プロ野球というものがこれだけ昔からほぼ同じルールで続いているのを目にすると感慨深いものがあります。そして、戦後まもなくから当たり前に続いていた野球が止まっている現実を鑑みると、新型コロナウイルスがもたらしている事態の重さを痛感します。早く終息して、日常が戻ってくることを祈るばかりです。
更新ペースが遅くて申し訳ないですが、野球が無い間は今回のような過去のシーズンを振り返る記事が中心になると思います。できるだけ面白いデータを載せていこうと思うので、お楽しみに。暗いニュースばかりで気が滅入る毎日が続いていますが、気持ちだけは明るくいきたいですね。いつかまた普通に野球が見られる日々が戻ってくることを信じて。それではまた。